なぜ「ダサい」は、いけないのか。
なぜ「ダサい」は、いけないのか。
「なぜ日本の●●はダサいのか。」
ワールドワイドウェブの世界を泳いでいると、そんなエントリーを見かけることがある。
え、ない?私だけ?
ウェブとかフライヤーのデザインのネタ探しに検索しまくってるからかしら。
まあいいや、あるんですよ。
日本の… そうねえ、わかるような、わからないような。
これはジェンダーや世代間の問題を扱うときでもそうなんだけど、指ひとつで(正確には何らかのコストを負担して、だけど)世界と繋がれる時代に「日本だから」なんてカテゴライズする意味ってどこにあるの、と思う。
はい、脱線。
実際、ださいもんはださい。
「ダサい」って表記がもうすでにださい。なんでもかんでも平仮名にしていいわけじゃないけど、「ダサ+い」は、なんかもうむちゃくちゃださい。なんでもかんでも平仮名にしたがるのは自分の弱さだと思ってるけど、ごめんなさいゆるしてください、ださい。
そういうわけで、日本の云々はさておき、ださいものは世間に溢れかえっている。
「ダサい」ってなんだろう。
ださいって、かっこ悪いとか、おしゃれじゃないとか。
じゃあ、かっこいいとか、おしゃれって、なんだろう。
う。うんー、それって、「赤ってどんな色?」という問いに「青じゃなくて白じゃなくて緑じゃなくて黄色じゃなくて…」って答えるのと似てる気がするんだけれど。
野暮というのが答えっぽいけど、じゃあ野暮ってなんだって調べると「粋じゃない」とか書かれているわけで。
でも言葉って、そういうものかもしれないね。
あるひとつの言葉を理解するためには、他のいくつかの言葉を理解している必要がある。
もしくは見たり、体験体感したりしないと理解できない。
それはそれでいいよね。だって言葉って道具なんだもの。
はい、また脱線。
「ダサい」とは、見た者に不利益をもたらす象形。
なんだかんだ言っても、ダサいにはカタチがあるような気がします。なのでとりあえず私は、こんなふうに捉えています。
そうなのよ、不利益なのよ。
ださいものって「うう、だせえ。」という感情だけでなく(これも辛いんだけど)「伝わらない」というアンハッピーな結果を生み出す可能性もあると思うのね。
「いやいや、多少ダサくても…」
こんな声が今にも聞こえてきそうですけど、
「目を惹けばいいんでしょ。」 -目を逸らしたくなるかもしれないよ?
「要は中身でしょ。」 -中身を見てもらうためには、どうするの?
「素人なんだから。」 -それならプロに頼もう。それもダメなら、勉強しよう。
私はデザインのプロではないし、ずば抜けたセンスもないし、こつこつ自学するような努力家でもない。
けれど、必要だなと思うから、やってる。嫌いじゃないし。
嫌いじゃないし、デザインのプロではないけど、その目的を果たすこと(モノを売りたいとか、ヒトを呼びたいとか)についてはプロでありたいと思っているから。
なぜ「ダサい」は、いけないのか。
かっこいいとかおしゃれとか、粋だとか、ルールがあるようでないものだし、どんどん変化していくもの。
けれど、ださいと言われること、ださいと認識されることによって生まれる不利益については、どういうカタチであれ何かを発信する立場にあるならば、認識しておかなければいけないと思うの。
いけないっつーか、認識しておいたほうがいいよ。
損するタネは、持たないに越したことないよ。
そう思うの。
それから、かっこいいものやおしゃれなもの、美しいものを作ったりするのって、楽しいよ。よいものに触れるって、幸せだよ。
自分で手を動かして作るのもいい。指ひとつでつながる世界のデザインをたくさん見て、やり方作り方を学んだり編み出したりして、すぐにはできないけどその過程もすごくおもしろい。
もしくは、世の中にはおおぜいのプロがいるから、そういう人たちと一緒に作り上げるのもとてもいいことだと思う。
お願いするあなたは「よいもの」を手に入れて「よい成果」を手に入れる。やったね!
お願いされた誰かは「収入」を手に入れて「よい経験」を手に入れる。やったね!
あれ、これってもしかして、
みんながハッピーになれる方法なんじゃない?
デザインって、すごいことなんじゃない!?
そんなことを考えた日。
あの場所で、桜のつぼみは、もうぱんぱんに膨らんでいます。