過去は変えられる。
いまさらですが『マチネの終わりに』
読みました。
それで、この物話の中で繰り返し言われる「過去は変えられる。」について、これはある一種の感情を抱えている人たち(そんな人は、わりと多い気がする。)にとって、けっこう心づよい言葉になるんではないかなと思って、インスタで書き始めたらすごく長くなってしまって、しまったこれはブログに書くべきであった、と思った次第です。
なのでインスタと、連携してるフェイスブックにもだいたい同じようなこと書いてます。
過去は変えられる。
最近読んだ本から。ははあなるほどと思った。
わりと話題になった本だし、その本そのものに拍手喝采かと言えばそれほどでもないんだけれど。
過去は変えられる。
未来は変えられるような気がしているけれど、結局どうなのかわからない。だってまだ未来というものを、そのものを見たことがないんだもん。だから何が変わったかなんてわからない。
ただ未来を変えたような気がするときには、うす曇りの今日や風にのる香りややふとした一言が、未来を変えたような気がする何かをしたという過去になるはず。
過去は変えられる。
私たちはどうしても終わってしまったことにとらわれがちだ。それはだって過去のことしかわからないのだから当然なんだと思う。だけれども、過去は変えられる。変わっちゃうことも、変えちゃったこともあるかもしれないけれど、自分の意志ではっきりと変えることもできると私は思う。
意志だけではだめだ、と思われる向きもあるかもしれない。でも行動だけでは、それは「変わっちゃった」だと思うの。行動に意志を持ってこそ「変える」ことができる。
私はそう思う。
意味をもたない意味
物語の中では主人公のふたりが変わってしまった過去を何度も振り返りながら、しかし変わらなかった場合の未来(現在)を何度も想像する。
それは後悔でなく、単純な振り返りで純粋な想像でしかない。もしかしたら心の奥底にはあるのかもしれないけれど(そもそもそれがまったくない、ということが在りうるのかさえ、私にはわからないけれど)その振り返りに、その想像に、意味を求めなていない気がして、そこはとてもいいなあと思った。
私たちは、往々に、物事に意味を持たせたがりすぎる。意味のないものなどない。そうかもしれない。だけれど、たとえばその過去によって今が苦しいと思うならば、その過去に意味を持たせる必要はないのではないか。
過去は事実ではない。過去は自分の記憶の中にあり事実も含まれているが、その多くを支配するのは感情だ。そうであるならば、自分の過去が自分の今や未来を困難にしていると思うのであれば、その過去の意味を失くしてしまえばいいと思う。
もちろん事実は変えられない。しかしながらその事実というものも、絶対と言うには余りにも脆く不完全。なんですよね。
「過去は変えられる。」
つまりものすごくひらたく言うと、気の持ちよう、みたいなことなんだけど。
(違う?でも近いと思うなあ。)
とても心づよい言葉だと思う。
写真は本文とはびた一文も関係ありません。
最近恋愛小説ブームなんですが、読んだ上で書いた記事がこれってもう完全に終わってんな、と。